
における生活に大きな課題を残した。 (2) 労働移動の状況 大都市圏への人口流入は、昭和40年代後半から低下傾向を示し、50年代前半まで低位な流入水準で推移したが、昭和56年以降、再び増加基調に転じ、人口の再集中化が始まった。これは、東京圏への転入数は、ほぼ横ばいであったが、減少基調であった東京圏からの転出数において、減少傾向がさらに強まったことが大きな要因であった。 人口移動の動きと軌を一にして、労働移動の流れも、昭和50年代後半から、労働力の大都市圏再集中化の傾向を示すとともに、従来とは異なり、労働力は大都市圏外からの流入ではなく、大都市圏内で育成された若年労働力が新たに労働市場に参入することによる「内部からの増加」といった質的な変化がみられた。 一方、一村一品運動の展開等、新たな地域おこし、地域振興の高まりを背景に、地元での就職者数も増加した。 (3) 政策的対応 政府としても、東京圏への一極集中による地価高騰等さまざまな弊害の発生から、昭和52年に「第三次全国総合開発計画」を策定し、従来の「全国総合開発計画」とは異なり、資源の効率的配分ではなく、限られた国土資源を前提に地域の特性、伝統文化を尊重し、人間と自然の調和のとれた人間居住の総合的環境整備を基本的目標とした。そのため、大都市への人口と産業の集中を抑制する一方、地方を振興し過疎過密に対処しながら新しい生活圏を確立することを内容とする定住構想を示した。 前述の「地方の時代」においても、政治参加だけでなく、自然環境・生活環境も含めた豊かな活力ある地域社会の形成をめざすものであった。多くの地方公共団体で、環境問題・福祉という生活関連分野で、独自の政策運営が行われた。 労働省は、特定不況業種・不況地域雇用対策法の制定(昭和52)を図るとともに、広域的な労働力の需給調整を図る等、地域雇用開発対策に踏み出した。 5. 昭和60年代から平成5年頃まで 円高不況から平成バブル景気へ (1)時代背景 昭和60年代に入ると、急激な円高が進行し、昭和61年には円高不況に見まわれた。しかし、円高不況は短期に収束し、昭和61年末に始まった景気上昇は地方にも波及した。産業構造の調整はさらに進行した。東京圏においては、外資系企業の参入や情報化・インテリジェント化に伴い、東京でのオフイス需要が急激に高まったこと等をきっかけに、急激な地価高騰を来した。その後、地価高騰は全国に波及し、資産インフレを生じさせた。 また、為替レートや、賃金の内外価格差に起因する産業や労働力の空洞化問題が顕在化した。 日本経済は空前のバブル景気に湧き、見せかけの繁栄を享受することとなった。
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